昭和47年09月12日 朝の御理解



 御理解 第18節
 「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」

 信心をさせて頂いて有り難い事は、どういう難儀に直面致しましても、それをおかげにしていけるという事。そういう難儀のおかげ、直面したその問題のおかげ。そのおかげでという事が、信心させて頂く者の一番有り難い事だとこう思うです。その難儀なら難儀が、いつの間にか難儀は慢性になったような頂き方と言うか。又はそれがいつの間にか、諦められてくるといったようなものではなくて、その事がおかげでと言えれれるという事が信心の有難い事なんだ。私は生神になる道とはそういう事だと思うですね。
 永年信心しよれば、そうなれるという事じゃないです。本気で、その事に取り組んで、その事をおかげにしていくと言うか。その事のおかげで、信心が分かると言うか。兎に角、その事に対してお礼が言えれる心が、私はもう既に生神だと思うですね。普通では、困ったとか、難儀と言うけれども、その困ったという、その事が、おかげでと言えれる、有難いと感じられる。だから、目指すでも、そこを目指すと言う事。
 その事が生神にならせてもらう。生神に一歩一歩近づかせて頂いておるという事は、そういう信心をさせて頂く事だと思う。先日杉山さんの車で、福岡に参りました時に、車の中でレコードでしょうか、をかけておりましたが。「王将」という歌がありますね。「これから東京へ出て行くからには、何が何でも勝たねばならぬ」というような歌詞があります。何が何でも勝たなければいけない。そしたら、その次に、美空ひばりが歌っている。それは「柔」という歌でした。
 それには、「勝つと思うな思えば負ける」ち言う。その事がです。矛盾しとるようだけれども、矛盾ではないと思うですね。一方は東京へ出て行く。勝負の世界に入ったらです。何が何でも勝たにゃならん、という歌詞と。勝つと思うな思えば負ける、と言う。その辺のところの体得が、私は信心だと思うですね。今度「和賀心時代を創る」という、書物が出来ます。それで、その表紙に書くのですから、それを私に書けという訳です。もう今朝も、いろいろ書いてみた。
 もういくら書いてもいくら書いても、自分のこれならよかろうという字が出来ない。こういう事がです。勝つと思うな思えば負けるという事じゃなかろうかと思う。皆さんが何か、ひと筆書いてくれと、お取次を願われて言われる。その場でパッと書いてあげる。そういう時に、会心の作と言う訳ではないですけれども。何とはなしに字は大体上手じゃないですけれども。何とはなしに有難い感じの字が出来る。問題はその有難い字を書きたい訳なんです。その辺のところが、なかなかですね。
 今日もその本に載せる為に、写真を写したいと言う。だから写ろうと思うとこうやっぱり気張る訳です。けれども自然の中に撮ったのの中に良いのが出来る。三代金光様の時分に、映画が出来ました。それにそれを撮らせて頂いた人が、もう金光様は名優だと言うたそうですね。ずうっと金光様の一日をお出ましからお引け、又は御結界奉仕のお姿なども、ずうっとそのフイルムに収めて行く。それにですね全然もう気張りがない訳なんですね。だから名優だと言うたと言うことですけれどもその境地なんです。
 なかなか難しいこと。写真一枚撮らして下さい。そんならどうぞと言うて、こうやってポーズを作ると言う様な事では、本当のよい写真が出来ない。けれどもハイどうぞと言いながら、今写されてあるというような感じが全然ない。今朝も後ろから、こうやって写しておられます。これは自然に写される訳ですけれども、せっかく写されるなら、こんな前の方に、歯の欠けたごとせんで、少しは演出してしかもこっから写しよるけんで、おなごばっかりしか写らん。
 こっち半分な男ばっかりじゃけん、男の人の入れ混じって、この辺からこう写すなら、もう一杯のごとある訳です。写真やら写す人はちったそのくらい頭働らかせにゃいかんなと思う訳です。大祭なんかの写真でも、そうです。そこん所をちょいと一人詰めて下さいと言うて、一人詰めさせりゃ一杯詰まった様に見えるのに、一とこ空いとる所が入っとると、もうそれで、何か一杯じゃない様な感じがする。写し方それにやはり、ちょっとした演出もいる訳です。何のために写すのか。
 いうならば合楽の御比礼を発表するとでしょう。そんならやはりそういう様な、私がここへ座っとる所じゃなし、女の方ばっかり座っとるといった様な事じゃなくて、これが、朝の御祈念の情景ですというならです。事実、男女が混じりあっとるのだから、それを、やっぱし、男の方は、ちょっとこちらへ寄って下さいとか何とか、どうか言うて写したら良かろうと思う。
 ところがです、そういう風に演出したのでは、今度は、本当の物が出来ないと言うところの難しさがある訳です。そこで、私共の心の中に、そういう人情と心情が動く訳ですけれども。そういう時にです、どうでもよいという心が心情です。写真の出来とか、悪いとか、そういう事は問題じゃあない。もう金光様のお写真を、一枚頂かせて下さいと言うと、「ハイ楽です」とおっしゃったですね。
 私共が一遍北野の山口さんという写真屋さんと一緒に家にもその写真を一枚頂いたんですけれども。北野の先生がお願いをなさいました。写真を一枚撮らせて下さいと。そしたら「ハイ楽です」とおっしゃった。その代わりにハイどうぞ写して下さいと言うて、ポーズをとられる訳でも何でもない。そのありのままの姿を頂くだけ。成程これなら楽だろう。ちょっとそちらの方を向きなさるという事もない。
 「ハイ楽です」と。この境地が、私は生神様の境地だと思うですね。勝たねばならんとか、勝つと思うたら負けるとかと、勝とうと思うから、普段にならなければならない。勝とうと思う心を一生懸命、払わなければならない。そこに不自然さがある。それを引っ括めて申しますところにです。どうでもよいという事なんです。だから、又、このどうでもよいという事は、そんなら、なるごつしかならんからというような、捨鉢的なものでもさらさらない。大体、私の主義は、どうでもよい主義です。
 例えば、先日夏の御大祭が奉仕されました。あれなんか、本当にどうでもよい主義で、あのお祭りは出来たんです。だから今度の記念祭も、あの気持ちでおかげを頂かせて頂こうと思うて、これは再三お願いした事であった。ところがね、神様は今度はそれではいけんと頂いたです。心を使うところは心を使わねばならんという事。先日から手紙が参っておりますのに、古川の一門ですから、金光家それから安部家、古川家十五人余りの先生方が見える。中には金光様御夫婦も見える。
 だから正式に本部教庁に申し込むのではなくて、御親戚として御案内を申し上げるという事が言うて来ておる。だから正式に本部教庁にお願いをして出来た事と言うのじゃなくて、親戚としてのご案内である。いくら親戚としてお出で頂くにしてもです。元の教監竹部寿夫先生等も、見える事になっておる。まぁ日頃行きたいと仰っておられるそうです。まあ見える見えないは分かりませんけれどもです。
 例えばそういう事になるのに、そんなら私がこの頃夏の大祭仕えたように、どうでもよいと言う様な事ではやっぱりいけない。そこに礼を欠く事になりますから。思いをかけ、そこに、人間心も使わせて頂いて、あれこれ工夫させて貰うところにです。また真心が出て来るのです。だから本当に難しいですね、そういうところが。一生懸命に真心を使わせて頂いて奉仕する。かと言うと兎に角、なるようにしかならんのだからというのは、兎に角、神様のおかげを頂かなければ出来る事ではない。
 そして例えば寂しいとか見苦しい事があったらそれは、自分の改まらなければならない所。自分が分からせてもらわなければならないところを、分からせて頂くのだから、という気持ちですから、どうでもよいという事になるのです。字を書かせて頂くでも、そうです。少しでもよく書かんならんと思うと良く出来ない。何気なしに書かせて頂いたとの中に、返ってうんこれは良いなという事がある。けれどもそこ迄にはどうでも一つ、普段の稽古が出来ておらなければその時だけ、そんなら心を使うても駄目。
 その時だけどうでもよいという事であっても駄目。常にその事が心にかけられて、信心の稽古が出来ておらなければ出来ない。だから生神とはここに神が生まれる事であると。生神の誕生というのは、そういう実にデリケートな中に、生神を感ずるのです。演出しないなりに出来る。神ながらな事。けれども少しでもよいようにと、真心を込めて演出をする。そこに神が誕生されそこに。
 だから成程勝つと思うな思えば負けるであり、どうせ東京へ出て行くからには、何が何でも勝たねばならんという、この二つが矛盾ではない事が分かるでしょう。そしてその二つが心の中になからなならんかと言うとです。そんならそれでもいけない。不思議な事ですね。御大祭を仕えるのにもう兎に角、人間心は使わんで神ながらに奉仕させてもらう。どうでもよいのですから。さあ先生方何人でこうせにゃならん、いう事でも何でもない。神ながらに動かせて頂けば楽である。
 そういう心が生神である。楽ですと言うておる。かと言うて、そんなら、わざわざ御案内申し上げる、偉い方達が、お見えるのに、神ながらでほうからかしとく訳にはいかない。そこには、思いを込めて、させてもらわなきゃならない。人情が、そこのところに人間心が勝ち過ぎても出来ず。そこに求められるのが、真心である。その時に、ふと出てくる心が真心である。
 勝つと思うな思えば負ける、という事は思うと負けるから思わないという事では、勝つ事の為に思うまいとしておるのであるから、それは本当に負けてしまう。その辺の所は本当に、言葉ほど不自由なものはないというほどに難しい事ですから。是は銘々のやはり体験なのです。昨日高橋さんが二度目のお参りをされて、色々御用がございました。それを終わられたら、丁度私がお風呂に入る時間でしたから、一緒にお風呂に入って頂いて、久富先生と三人でお食事させて頂きながら思い出したんですけれども。
 この頃、四、五日、毎朝頂いとったけれども、何の事か分からんから、高橋さんに聞こう聞こうと思いながら忘れとった。それはあの「Q&Q」という事を頂いた。テレビでやってますよね。私はその、あちらの言葉が分かりませんから、大体どういう意味ですかと、昨日、思いだして聞かせて頂いた。キューピーさんのQですね。私の感じとしては、Q&Qといただくのは、なんかキュウキュウですから、もう急を要するという感じがするんです。これは、それを日本語でもじったらですよ。
 Q&Qと言うこつは、もう早う早うと言いよんなさるような感じがするんです。と言うて、私は申しましたら。高橋さんが、そうですよ、その事ですよとこういう訳なんです。テレビで、このQ&Qという番組があってますよね。それは何か、本当に、ちょっとの時間に、答えなければならないという。それが全部合うたら、百万円貰えると言った様なクイズですね、言うなら。そう言うのをやってる。その事がQ&Qと言うならです。私が感じた事とあんまり変らない訳です。
 ぐずぐずしょったら、たとえ答えが出てももう駄目だとこういう事なんです。だから何を神様は、Q&Qという事を、私に求め私に求めるという事は、皆さんに求めておられるという事だと思うんですけれどもです。どういう事だろうかと、私は改めて思うてみた。成程、御造営も着々と進んではおりますけれども、やんがて一月位遅れておるという。記念祭も一月後に迫っておるという事。さぁ今月は霊祭生誕祭、総会といろいろに行事が一杯である。あれやらこれやら何とはなしに心忙しい事である。
 第一の事はやはり記念祭。記念祭を迎える心構え、心準備というものがです。出来ていない。只その日に参って拝みゃいいという人も沢山なからなければならない。言うならば合楽の記念祭ですから、一遍お参りしてみなさらんかと言うて、誘いを受けて参って来る人達は、やっぱり一つの枯木も山の賑わいである。お祭りの雰囲気を、いよいよ盛り上げる事の為にやっぱり要る。
 けれども結局皆さんが、合楽のお祭りの中心になんなさらにゃならない。中心の方達が果して、記念祭を迎える心準備というものが、出来ておるかどうか。その修行が出来ておるかどうか。その為の修行が出来ておるか。ぐずぐずしょったら遅うなるぞと。いわゆる時間を過ぎて、そんならと思いついたんじゃ、もう時期遅しという事になるのだ。何とか早く、どうとかしなければいけんじゃないか。どうとか手を打たなければいけないじゃないかと。神様がやはり急いでおられるような感じがするのです。
 例えそれがです、本当の事を思うてもです。もう時間が、もうその後に言うたって、それは正確に合うた答えであっても、もう役には立たんという事。たとえそんなら御造営が終ってから、又は御大祭が終ってからでも、それをなさせて頂いても、思いつかせて頂いても、もう遅かという事、思いつくなら今のうちだというようなものを感じるです。それを、今日の御理解から言うとです。もう神様がちゃんと合楽の場合は、神様が先頭に立ってしござる事だから、何とかなるがと。
 私はそういう考え方が、合楽の方達には、非常に強いと思うですね。例えば記念祭ともなれば、もう大きな教会ともなりゃ、二年位前からずうっと着々として、準備があります。どんな小さい教会でも、一年前にその計画が立てられます。そして記念品なら記念品、記念出版なら記念出版の事がなされるですけれども。もう後一月になってから、まあだバタバタしょる。バタバタしよれば、何とかいいけれども。
 全然、まだその事には手もつけていないといったような、これとまだ決まってもいないといったような、記念品なんかの場合は、まだそうです。やっぱり記念品でも、印入りなら印入りにさせて貰うとするなら、さぁ目ん玉に指突っ込むような事では出来んのです。そこでです、最高の人間心を使うてです。そこから、ふと生まれてくる真心。そんなら、お掃除ならお掃除でも、一生懸命させて頂いておる。さあ大祭前に、草も取っとかにゃならんと、いろいろ、例えば人間心です。
 けれども、それをなさせて頂いておるうちにです。ふと自分の心の中に、有難いものが、生れてくる。お掃除させて頂きながら、草をむしりながら、有難いものが生れてくる。それが生神なんです。言うなら人間心、それを真心とも言う。その真心からの奉仕を、人間心でさせて頂きよるうちに、真心が生れてくる。いわゆる、神心が頂けておる印がです、感動となって出てくる。
 記念祭を迎える為に、勝つと思うな思えば負ける。と、何が何でも、五年の記念祭をさせて頂くのに、何が何でも、神様に喜んで頂けるような、盛大なお祭りを、何が何でも仕えにゃならんという、二つのものがあって、しかも、二つのものから、生れてくるのではなくて、その言うなら、相から生れてくるという感じがする。だからそれは矛盾ではない。鐘が鳴るのか、橦木が鳴るか、鐘と橦木のあいが鳴る、のである。鐘だけでは、どうにも出来ない。釣鐘の事です、お寺さんの。
 撞木と言うのは、突くのを撞木と言う。実際は鐘でもなからねば橦木でもない。そのあいが鳴るのである。そのあいの心をです。神心と言うのである。言うなら生神の状態と言うのである。信心させて頂いて、一番有難いのはそれは、成程目の前が真っ暗うなるような、難儀に直面する事もあるけれども。その事をスッキリおかげにして行けれるという事。その事にお礼が言えれるという事。迄の修行させて頂くという事が有難い。
 ただ信心しよるから、お願いしてからおかげを頂いたという事だったら、誰だって有難いと思う。その有難いというのは、生神の心というものではない。これは人間誰しもの事。子供でもオヤツをやる時はニコニコするようなものだ。それとは反対な事の中にです。お礼の言えれるような心こそが、そういう稽古こそが、生神へ向かう稽古であると思うのです。私共が合楽におかげを頂いて、合楽の教会が誕生して、満五年という節に丁度、直面しておる。そん時にどうでもよいで。
 あの記念祭は迎えられたというのじゃなくて、あの時には本当に死に物狂いじゃった。もうどうでもこうでもと言うて、修行させて頂いた。ああいう御用もさせて頂いた。そういう、させて頂くその事じゃない。そうさせて頂いておるうちにです、あいの音色というものを聞き取る事が出来た。あれが信心だ、あれが真心だ、あれが生神の境地ではなかろうかと思われる様なものをです、頂いて行かなければならん。
 そういう、いうなら機会に恵まれておると言うか、こういう千載一遇の時なんです。だから、それを時たらしめよと。そういうところをです、神様は、Q&Qというような事で教えて下さるのじゃなかろうかと思うのです。ただ金光様の御信心は、生神になる道だと言うておって、ただ信心をしておるだけで、生神になれるという事はない。そういう問題をふんまえて、又は難儀の上に立って、その難儀の中から、生神への道を求めて行かなければならない。厳しいと言えば厳しい。
 けれども、それは自分の心の中にです。どちらへ転んでも、有難いというような、心の頂けれる為の事ですから、素晴らしい事になってくるのです。どんな事柄であっても、有難うございますと、即言えれるような心の状態こそ、生神というのですから。それに向かって、人間の幸せと言うのはそう。それが時間がかかっちゃならん。けれども、私共は時間がかかりますけれども。私は、夕べ、総代さん方も何人も参っておられたし、それから幹部の方達も、お参りがあっとりました。
 だから少し、本当に声を荒らげて、久し振りで気合いのいった御理解を、昨夜頂いた。妹達が、親子連れここでお届けしますから、もう百日祭になろうとしておる、泰子が亡くなって。いつ迄もクーッと、下をうつむいておるような状態が続いちゃならん。ただ毎日毎日参って来よるというだけじゃ出来ん。もういい加減、お礼の言えれる心が開けて来なければいけんじゃないかと。まぁいつの間にか、段々、諦めも出来てくる。信心の有難いお話も頂いておる。いつの間にかというのじゃなくて。
 もう百日もなるのだから、思い出せば、その事は悲しい事ですけれども。けれどもこのような、有難いものがです。心の中に育ってきよるというものがなからにゃ。今のような信心じゃ出来んぞと言うてから、言うた事でした。それが頂けるのが信心だから、頂けんとするなら、信心は値打ちはないじゃないか。人間の最大の不幸と言や不幸、悲しい事と言や悲しい事に直面してからですらもです。そういう心の状態が頂けれるのが信心。そういう心が、即頂けた時が、生神の心の状態なんですね。
   どうぞ。